1. わくらばの戦士


 夏の山が深々とした緑を湛え、その懐を広げていた。西陽の影になった谷間を、大柄な壮年の男が一人、息を荒げて笹藪を掻き分けていく。


 その足跡とともに、矢傷から流れ出る血が点々と連なっていた。懐で雫をなしては滴って、朽葉の中に落ちてゆく。纏った毛皮を貫いて、背に突き立ったままの矢柄が低木の枝に絡み、余計な痛みを与える。男は呻きながら後に手を回し、苛立ちに任せてそれを引き抜いた。それからすぐに背から脇腹まで湿るのがわかった。途端、顔面からは更に血の気が引いていく。毛皮の重みが一層増し、そのまま地面に吸い付くように突っ伏した。


 痛みに耐えかねて、馬鹿なことをしたかもしれない。まともでいるつもりではあったが、己が正気か否か、曖昧だった。男はそのまましばらく動かなかった。呼吸を整えて、笹薮の下で耳をそばだてる。辺りに何か、動くものはないか。人の声は、馬の息は聞こえないか。微かな風に、木々の葉が擦れ合う音だけが答えた。


 このままでは体が余計に冷えてしまう。男は四つ足の獣のように頭をもたげ、また立ち上がった。病葉のような赤髪の間から前を睨んで、泥濘みのない草影の深い方、深い方へと分け入ってゆく。追手に見つからない内に、捕らえられない内に、一歩でも遠くへ。生き延びる可能性へ。ところが少しも進まない内に、枯葉に埋まった岩に足を取られて大きく傾いた。男は藪を掴む隙もないまま、肩から窪地に転げ落ちた。


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「タモの頭領、アテルイ。お前の戦が、異形兵士を呼び寄せた」


 つい昨日のことだ。合議の終いに、そう言われた。館に集まっていた他の長連中は、その場に座したまま下を向いて黙るか、隣の者に何か耳打ちし合うかだった。言い放ったのは、アザマロの声だった。かつてヤマトに仕え郡司の責を負い、ムツ国の北辺を預かったエミシの長にして、後に私怨から当時のムツ国司を斬り伏せたといわれる男。暗く覆い被さる葺屋根の館の中、灯火越しにぼんやりと浮かび上がる、歳を重ねてなお精悍な眼光を宿した老爺の顔。


「アザマロ翁、何を言い出す。我々は他の一族らと肩を並べ、命を賭してヤマトの軍を退けた。各々の痛みは等しい。戦の後は互いの損耗を補い合うと盟約を交わし合っただろう。……それにだ、親父がかつて、貴方の一族を匿った恩を忘れたのか」


 アテルイは返した。たしかに、南より逃れてきたこの者の、優れた軍略による補佐なくして、度重なるヤマトの侵攻を阻むことは難しかっただろう。だが、イサワ周辺に散らばる集落からなる、流動的な兵力をどうにか維持して来たのは、アテルイらタモの一族が土地を拓いた基盤があってのことでもあった。前の戦いで一族が大きく衰退したとはいえ、合議の場でもあるこのタモの館と周辺は辛うじて戦火を免れた。残った仲間と近隣集落の補助で、再び立て直しを図ることも可能だった。もちろん、各々の集落を纏める長の協力的な姿勢がある事が前提であったが。


「忘れるものか。忘れておらぬからこそ、お前に代わって、俺が仇を取ろうと言うのだ。お前の親父や親類、討死にしていった多くの同胞の。タモの頭領、アテルイ。お前は犠牲を出しすぎた。今やこのイサワ一帯において、お前に恨みを持つ者も少なくはないぞ」


 炉にちらつく火に伏せられていたいくつかの視線が、こちらへ向く。戸口を固めていた見張りが2人、腰の得物を抜き連れ、黙って距離を詰めてくるのが音でわかった。この有様に、誰もうろたえるような様子はなかった。どうやら合議に参じた長のうち幾人かは、どこかであらかじめ口裏を合わせていたようだ。


「さらばだアテルイ。この連なりの指揮は俺が執る」


 合図一つで、何の躊躇もなく刃を突き出してきた腕を寸でのところで払いのけ、アテルイは館から飛び出した。振り向かずとも、外に待ち構えていた射手達が、一斉に背中を狙うのがわかった。馬に飛び乗り、死物狂いで逃げる内に、自分がどれだけの傷を負ったのかはわからない。こうして男はイサワの地を、頭領としての立場を追われた──


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 頬が淀みに浸かった冷たさに、男は目が覚めた。身を捩ると、肩に足に痛みが広がる。どれほど転げ落ちたのか見当がつかないが、まだ動こうという気力が残っていた。やっとの思いで淀みから這い上がると、男は目の前に、岩壁がせり出した陰が暗い陰になっているのを認めた。それからしばらく、虫が鳴くのと、男が落ち葉の上を這いずる音だけが聞こえていた。


 男は、やっとの思いで苔むした岩壁にもたれた。いよいよ陽が落ちきって、立木の影が重なり合い、辺りを包み込む黒い塊へと変わってゆく。俯けば、土の冷気が湿りきった足元を伝い、襲い来る震えが増す。手元には火付けの道具も力もない。この有様で、己はどう生き延びようというのか。生き延びた先、どうしようというのか。地面に目を落とす内に思考がほつれ、男の瞼は次第に重くなっていった。


 何かが蠢く音がする。朦朧とする意識の中で薄らと瞼を開き、再び足元を見やると、洞のあちこちに散らばっていた礫が、爪先に寄せ集まっていた。まるで虫が群がるようにひとりでに動いて、ひりひりと擦れる音とともに周囲の土と混ざり合い、塚のように盛り上がってゆく。それは次第に柱よのように立ち上がって、人の立姿のような形を成していった。


「何だ」


 強張った青い唇で問いかける。奇岩の成した黒い人影が、二つの赤く光る瞳で男を見下ろしていた。人影は男の顔を覗き込むように身を屈め、赤い瞳を近づけてきた。男は乱れた前髪の間から錆びた瞳で人影を睨み返す。


「俺を喰らおうってのか、化け物」


 返答はなかった。しかしその問い掛けに応えるように、人影は男の眼前に手を差し伸べてきた。冷ややかでざらついた岩肌が、男の頸を包んでゆく。息の詰まる苦しさと、皮膚を削る確かな感覚が、夢ではないことを物語っていた。


「ハハッ、そうか、いいだろう。いくらでも啜れ、貪れ。その代わり……」


 人影が大きく揺らぎ、男に覆い被さった。大蛇が蜷局を巻くように蠢く黒い岩塊、その内に呑まれゆく男の口元には、笑みが浮かんでいた。



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 その日、青年の足取りは軽かった。明朝に伝ってきた谷を見下ろせる、大分高い場所へと登ってきた。顔にまとわりついていた厄介な羽虫も、斜面を渡る風に吹かれて飛び去って行く。腰に下げた水筒を手に取ると、鈍い銀色の蓋を開け、口に少しの水を含んで一息ついた。昨年の倒木で空いた枝間の向こうには、沸き上がる夏の熱気に青く染まった山々が遠くまで連なっていた。


 肩に食い込んでいた山道具を背負い直すと、一筋の獣道に逸れて藪の中に分け入った。笹の疎らな所を選んで尾根まで登り、辺りを見回して目印を探す。二又に分かれた老松の根本に、縄が括り付けてある。そこから尾根を跨ぎ、反対の谷側の斜面をまっすぐ少し下る。すると剥き出しの岩場があって、その脇に以前掛けた小屋が残っているはずだった。彼の目当てはそこにある。


 青年がその岩屋を見つけたのは、もう何年か前になる。元は家の屋根を直すための材を採るつもりで、この山の中腹あたりに小屋をかけていた。しばらくそこに寝泊まりしていたところ、山が大きく鳴った夜があった。恐ろしく思い、朝には山を下りようと来た道を戻ろうとしたところ、途中の岩場に見た覚えのない洞穴が口を開けていたのだ。


 恐る恐る中を覗いてみたところ、穴は入口で己の背丈の倍ほど下に落ち込んでいたが、その奥が微かな薄明かりで照らされ、奥へと続いていた。人為的に掘られ、整えられたような内部には、倉だったのだろうか、おびただしい数の箱や筒が並べられ、中には見た事のない器や布地、道具などが収められていた。初めは何にも手を付けず山を下りたが、どうしても気掛かりで、後に度々中の様子を見に来た。しかし、いつ訪れても人の気配はなく、物を動かした痕すらなかった。


 以来、その岩屋から物を持ち出しては山から下ろし、使うなり、売るなりして生活の足しにしていた。腰に下げた水筒もその一つだ。初めは平地に暮らす買い手から物の出所について色々訊かれたが、岩屋の場所も中の様子も、子細を語る事なく隠していた。取引相手の中には、入る山に察しを付けた者もいたが、深追いはされなかった。元からこの山地に暮らす者は滅多に立入らない、"いわく付き"の領域であるとは後から知った話だ。──己の顔も相まって、陰では気味悪く思われているだろう。思い返した青年は、右の頬を軽く撫でた。


 とはいえ、数年前に青年が住み着いてこの方、嵐の来る時期でなければ何か起こるというわけでもなく、彼の縄張りは平穏そのものだった。今日は、しばらく天気も大きく崩れないと踏み、例の不思議な岩屋から物を運び出すと決めていた。低木の枝を手掛かりに岩場を下った青年は、程なくして目印となる小屋を認めたが、そこで足を止め、おもむろに身を屈めた。


(何だ?)


 藪越しに目を凝らすと、小屋の中には全身に毛の生えた何かが丸まっている様だった。隙間から大まかな形が見えるばかりだが、まさかクマではあるまいか。それにしては毛色は明るく、形が平たい気もする。ひとまず正体を確かめようと、青年は極力音の出ないよう藪を分け、小屋に忍び寄った。


 脂が抜けた茶褐色の毛皮の塊が、人一人横になれる程の差し掛け小屋の中に確かにあった。青年はさらに近付いた。それはもぞもぞと動くと、隙間から赤くうねる髪のようなものと、細い人間の腕を覗かせた。その手首には黥だろうか、なにか紋様が施されている。


(なに、人か……?)


 青年は意を決して毛皮の端を掴んで捲り上げた。その下には乾いた泥塗れの衣を着た、病葉のような赤い髪の娘が身を屈めて眠っていた。青年は娘の周囲を見回した。彼女を囲むように枯れ草が掻き集められているだけで、目立った道具は持ち合わせていないようだった。人里離れた山奥ではあるが、麓かどこかの集落から迷い込んだのだろうか、それとも。どちらにせよ、このような場所で野垂れ死にがあっては迷惑だ。青年は娘の肩を揺さぶった。


「オイ、オイってば。起きれるか?」


 青年の問いかけに、娘は薄らと瞼を開いた。




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※この物語はフィクションです。実在する人名地名団体名とは一切関係ありません