東の空が白みはじめた。館を囲って久しい粗造りの鹿砦は、立木のままの黒々とした枝を広げて外へと突き出していた。そのすぐ脇を、息を荒げた馬の影が湯気を立てながら、水桶の方へと曳かれていく。未明、イワイの境に目を出していた物見役が急使を寄越した。川筋三十余里を遡り、この台上に構えた拠点まで駆け登ってきたのだ。
「今日中に、全軍がイサワ平の南端に入る勢いだ」
イサワ平。田畑を拓いて作物を得るには都合のいい土地であり、牛馬の飼葉にも困らない。家や館を建てて年中暮らせる土地だ。それはもちろん、ヤマトにとっても都合のいい土地ということだ。ヤマトが当地を含めたヒタカミ川流域を肥沃の地として欲し、度々兵を寄越すようになったのは、幾年も前からだ。南の下流域には砦が続々と築かれ、それは年を経るごとにヤマトの支配域を北上させていた。
ヒタカミより北に国の括りはない。あるのはその土地の長が取りまとめる無数の集落と、各々の一族の友好関係からなる連なりだ。先祖達は代々、時に山野をさすらい、時にヤマトのもたらす恩恵を受けながら、時節に合わせて暮らしてきた。こうしてヒタカミに暮らす人々を、ヤマトの民はエミシと呼び慣わしていた。山野に住まいて強かなる者、雄なる者の意。それはヤマトが国土を拡げていくに際して生まれた数々の軋轢によって、鎮められるべき族、道理を知らぬ荒ぶる民としての意を強めていった。
ヤマトの支配に対し、利があると見てこれに従属する者も居たが、風土にそぐわぬ支配を拒んで、抵抗する者も居た。イサワ平のエミシ達は、その多くが後者に回った。故に当地は長らく、まつろわぬ民の根城、賊地とされてきた。
今まさに、5度の冬を経て戦支度を整えたヤマトの大軍が、イサワ平の南に40里と迫っていた。
「隊を分ける様子はあったか」
「今のところはない。コロモ川の渡しに至るまで、どうなるかわからんが」
「そうだな。手筈は前に言った通りだ。もし相手が軍を分けるようならば、東岸の連中にも使いを出して直接伝えてくれ」
かつての侵攻に際しては、こちらの陽動に雪解けの水を湛えたヒタカミ川が味方し、相手方に甚大な損害を与えて退けることが出来た。当時のヤマトの将校団は、被害を克明に記して都へと送っているだろう。あれから十分に時間も経っているし、ムツ国の内部にも変化があったと伝え聞く。同じ手には乗らないはずだ。
とはいえ、雄大な山河は変わることなくそこにある。ヤマトの大軍が、次に屯ろするであろう地点の目処は粗方ついていた。本当ならば寡兵をさらに分けるなど得策ではないが、こうして相手の動きをいち早く掴むために、こちらも兵を分けたのだ。あとは相手の長大な隊列が身じろぎする間に、こちらがどれだけ敵情を捉え、適した配置につけるか、だ。
駄馬の荷造りを急かそうと振り返った時、櫓の見張りが何か怒鳴るのが聞こえた。一人は日の昇る方向に真っ直ぐ差し、一人は急ぎ矢を番え、何者かの接近に備えていた。館の周りからにわかにどよめきが湧く。
東の空を仰ぐと、白い陽光の中に、大きな鳥が群れをなして飛ぶのを認めた。同時に、その姿と飛び方に違和感を覚えた。鳶のような鳥が、雁のように連なって飛ぶなど、あるだろうか。確かめようとする内に、奇妙な鳥の群れは高度を落とし、手前に広がる森の影に沈んだ。
「上だ! 上から来る!」
櫓の見張りがしきりに喚く。間もなく、羽音と共に、大きな影が梢の向こうから飛び降りてきた。
(鳥、ではない……!)
鋭い鉤爪が襲いかかる。鳥とも人ともつかぬ影が、伝令の首を切り裂いた。それは梢に隠れるように低く飛び、枝間を縫うように次々と襲い来る。術なく地面に打ちつけられる者、矢を射掛ける者、館の周りは瞬く間に戦場と化した。
地に降り立った影。異形の兵士は、深く被った冑の下の、生気のない目で辺りを見回した。たじろぐ者を見つけるや一跳びに襲い掛かり、翼に隠れた腕で腰に帯びた刀を抜き連れて、羽ばたく勢いそのままの力で、戦士達の顔や肩を深く切りつけていく。人への攻撃のみに留まらず、驚き嘶く馬の荷を切り落とし、散乱した矢柄は踏み折っていく。鳥獣の所作ではない。
それでも、うろたえるばかりでは瞬く間に制圧されてしまう。急所を射られたか、よろめいている異形の兵士1人を認めるや、数人掛かりで組み付いて引きずり倒す。格闘の末、肢体を幾度も貫かれたそれは、なおも嗄れた声で喚き、翼をばたつかせもがいていた。負傷した者は物陰に退かせる。その間にも、異形の兵士は梢を飛び越え、幾十と舞い降りてくる。こうも手間が掛かっては切りがない。
「小屋を燃やせ! 早くむこう岸に知らせろ!」
どうにかして、同胞らが預かる遠隔の陣地に知らせなければならない。すぐさま脇にある小屋に火がかけられた。朝の冷めた空気の中に、生成り色の煙が重々しく立ち上った。
相手が空から襲い来る以上、開けた場所に固まっていてはまずい。一人でも多く味方を林内に逃し、一度分散させなければならない。合図を出そうと踏み出した時、足首に何か重い感触がまとわりついてきた。
「まだ来る、まだ騎兵が、川を渡ってくる、来る」
足元に目を落とす。甲もろとも背を裂かれた若い戦士が、そう言い残して動かなくなった。
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「オイ、オイってば」
足元を軽く蹴飛ばされ、アテルイは目を覚ました。近頃見覚えのある、顔に火傷の痕がある青年男子。モレだ。腕には筵か何か、丸めた干し物を抱えながら、こちらをしかめ面で見下ろしていた。
「何日泊めてやってると思ってんだよ、お前」
「……ああいや、すまないってホント。感謝してるって」
「今日も働いてもらうからな。そこの汁啜ってからでいい」
モレは竈の脇に置かれた器を顎で指すと、眩しい陽の差す家外に出ていった。土間の照り返しを見るだけでも頭が重い。思い返すと、随分前の事を夢に見てもがいていたようだ。
悔いの残る戦だった。段々と思い出す。異形兵士による詭兵は、己がそうであるように、敵の心を恐れで苛む意図もあったのだとも思う。ヤマトの軍に圧され、仲間内からイサワを追われ、ここに来て悪い夢が幾年にも渡って続いているようにも思えた。
(さて、助かったはいいが)
どうにか逃げおおせて生き延びたが、困った事になった。これからどうすればいだろうか──己の心配ももちろんあるが、残してきた数少ない一族のことを含め、イサワの情勢も掴まねばならない。まずは己が置かれた状況を、少しでも把握する必要がある。アテルイは首や掌に滲んでいた汗を袖で拭うと、寝所から出た。
起きてしまえば、頭ははっきりした。元々それなりの広さがある家だが、背が縮んだせいで屋根が少し高く感じる。相変わらず身体の違和感は拭えないが、怪我もなく手足もしっかり動くのだから、ひとまずは十分だ。
アテルイはまだ温かい器を手に取ると、薄味の汁を啜りながら、改めて屋内を見回した。一人で暮らすには勿体無い家。材の組み方も竈周りも、イサワのものと趣きが異なる、少し変わった造りだ。中はそれなりに片付いていて、出入口付近の壁際には野良仕事に使う道具が整然と並べられていた。仕来たりなどとはまた別にして、何か彼なりの拘りがある様子だった。
(なんだか、変なヤツに助けられてしまったな)
幾日か厄介になる内に、彼の家の周りで気になっていたものがいくつかあった。変わった色や形の瓶、油の染みた厚手の布に包まれた、何か重い杖のようなもの。
色々あるが、中でもアテルイの目を引いていたのが、東の隅に掛けられていた甲冑だった。札を綴った立派な打掛け甲は、ほとんど使われていない様子だった。昨日モレの目がない内に少し触れてみたところ、革も漆も丁寧に拭き上げられ、虫除けもしてしっかりと施されていた。
このような武具は、そう易々と手にできる物ではない。ヒタカミにおいては、余程ヤマトに親しい有力者が、それなりの功績をもってして貰い受けてくるような代物だ。山奥に一人で暮らす若者が、一体何の故あって手元に置いているのだろうか。
モレが言うに、ここはトオノ平の北の山間にあたるらしい。彼は何年か前にここにやって来て、この廃屋群を見つけて住み着いたという。生業に関しては、時折平地の集落を相手にしながら手狭な山仕事をしていると答えるだけで、それ以上の身上は語ろうとしなかった。
とはいえ、麓の集落に身を寄せず、1人離れて暮らすとなれば、それなりの理由があるに違いないのは確かだ。目に見える所から推し測るに、あの立派な甲の出処、あるいは彼の顔や腕にある大きな火傷痕などと、何か関係があるのだろうか。いずれにせよ、ここに厄介になる限りは、しばらく互いの素性を探り合うだろう。残った汁を流し込むと、アテルイは外に出た。
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差し込みが浅かったか、最近、家の前の小さな畑を囲んでいた木柵が、端から歪んできた。獣に倒されてからでは遅い。筵を干し終えたモレは、納屋から木槌と鋤を引っ張り出して来ると、杭の補修にかかっていた。
アテルイ、と名乗る娘を泊めるようになって、もう7日ほど経つ。家に連れ帰った当初は大分弱っていたが、3日も経った頃には気力も戻り、飯も図々しいほどよく食うようになった。
ただ、彼女は毎晩のようにうなされており、くぐもった寝言でしきりに何か喚いていた。言葉はよく聞き取れなかったが、それは毎度、およそ女の声とは思えない様な低い怒声だった。気味が悪くて近寄り難かったが、今朝は余りにも苦しそうにしていたので、見かねて起こしてしまった。
どこの集落の者か、岩屋の前で何をしていたのか、真相はまだわからない。先日、彼女は小屋にたどり着いた経緯を事細かに話してはくれた。受け答えはしっかりしており、筋を追って語ってはいたが、にわかには信じがたい話だった。
本人は怪我一つしていなかったが、彼女が纏っていた大きな男物の衣は、乾いた血で黒く染まり、固くなっていた。元居た集落で本当に何かが起こり、それから山に逃げ込む前に余程酷い目に遭わされたか、そもそも何か良くないモノに取り憑かれているのか。頭の隅ではそのような想像が幾つも膨らんでいた。
(なんか、相当面倒なやつを連れ帰って来たな、これは……)
小屋で朦朧としている彼女を見つけた時、そのまま背負って山を下りた。思えばその他の考えなしに動いていた。彼女の心配もだが、己の身の心配もしたほうがよかった。今のところは何もないが、悪ければ物を盗って逃げたり、仲間を呼ばれて脅されたりしたかもしれない。彼女の処遇をどうするにしても、もうしばらく様子を見る必要がある。
杭を打つ合間、ふと家の入口を見やると、丁度あの赤い髪の娘が出てくるところだった。
アテルイ。──なぜ彼女は、あの忌まわしい男の名を騙るのだろうか。
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※この物語はフィクションです。実在する人名地名団体名とは一切関係ありません