雑木林の側にある、土の柔らかい場所を起こしたところが木柵で囲われ、小さな畑になっていた。丁寧に立てられた畝には、植えられた作物の葉に紛れて野草の若芽が顔を出しており、それを摘み取っては食べられそうなものと、そうでないものに分けていく。屈んで草をむしるアテルイのすぐ脇で、モレが補修したばかりの柵にもたれ掛かって一息ついていた。
「今朝は随分とうなされてたじゃないか」
「そうかあ。なんか言ってた?」
「何を言ってるかは分からなかったけど、まあ、やかましかったな」
「うーん、お前に竈で煮られる夢だった気がする」
「誰が煮るかよ」
頭の上から声が降ってくる。互いに目を合わせない内に幾らか放恣な気分が出てきたか、他愛のない会話がほんの少しだけ弾む。
もちろん、今朝夢を忘れてしまった訳ではない。異形の兵士が襲来した日、ほとんどそのままだった。その光景隅々まで覚えている上に、一度思い起こせば、それに釣られるようにして考えても仕方のない過去が引きずり出されてしまう。3年前の戦以来、ヤマトに抗う者らの態勢に、大きな衝撃を与えられてしまったのは明確だった。
仲間内では勝てるという者と、否という者、はっきりと分かれた。合議の最中、長とその一族らの間で意見が食い違う所も出た。ヤマトのような支配力があるならば、無理にでも兵力を補えよう。しかし、国のような大きな枠組みのないこのヒタカミの地にあって、一度解れた集落間の結束を再び繕うことは、容易なものではない。実際のところ勢力の維持にはアテルイ自身、散々に手を焼いた。
イサワ平の連なりから弾き出されたのは、その中で信頼の置ける集団との連携を固め、兵力を再編しようというその矢先のことだった。
(お前に恨みを持つ者も少なくはないぞ)
敵味方を問わず、勝利の影で犠牲となった者から向けられる、恨み。アザマロはそれがイサワ平の面々が刃を向けた理由だと言った。その老翁が、現頭領の立場を預かるアテルイの排斥をもって連なりの結束を固め、ヤマトの軍勢に立ち向かおうとは。自らが巻き起こした動乱の中で老いたる者の知恵と胆力、そして強引な手段は、侮れない。
アザマロに靡いたイサワ平の面々は、まだ戦をする気が十分にある。それに応えるように、再びヤマトの軍備が整い大軍が押し寄せる時、あの異形の兵士達はまた、こちらの戦意を砕きに現れるだろう。こちら、と言っても爪弾きにされた身ではあるが。そういえば、山深い土地でも異形の兵士の存在は何かしらの噂として届いているものだろうか。草の根を抜く手を止めず、アテルイは口を開いた。
「……なあ、急に訊くけど。ヤマトがイサワに寄越した化け物のこと、何か知ってるか」
「化け物? ああ、噂は聞いたことがあるが、俺は見たことない」
頭の上から答えが返ってくる。3年前とはいえ、当時のヒタカミを騒がせた一大事だ。モレはイサワ平にヤマトが攻め入り戦になったことと、そこに異形の兵士が来襲したことはさすがに聞き及んでいるらしい。
「こっちには来なかったのか」
「来たかどうかは知らん。俺は見たことないってだけ」
「まあ、そうか。こんな所に暮らしてるんじゃあな」
少し間を開けて、モレが思い出したように口を開いた。
「化け物兵士を寄越したっていうのはアレだろ。その前の戦で、イサワの頭領アテルイが、ヤマトの軍団を散々にいたぶって調子に乗ったから……」
「オイ、誰が調子に乗ったって?」
アテルイはすっくと立ち上がり、モレを睨んだ。
「だから、なんでアンタがムキになるんだよ」
モレは大げさに肩をすくめてみせ、心底呆れた様子で返した。彼には先日、山に潜った訳を大方隠さず話したが、どうにも中途が突飛すぎて、彼は終始怪訝そうな顔で聞いていたのを覚えている。アテルイは構わず言い返した。
「スブセでの戦はな、こっちだって死物狂いだったんだぞ。調子に乗るどころじゃない」
現状、ヒタカミの川筋ではイサワ平のエミシが過剰な抵抗をした事が、ヤマトが異形兵士を寄越した経緯として噂されている。モレの認識から推し測るに、それは多くの支流を遡り、ヒタカミの至る所にもまかり通る道理となりつつあるようだった。
それにしても、あからさまに嫌味の混じったようなモレの物言いに、アテルイは顔をしかめていた。数日世話になっていて確信したが、どうも彼はイサワ平の連なりや、その頭領を預かった己について良い感情は抱いていない。それには何かしらの理由があるのだろうが、恐らくは彼の語りたがらない心の内だ。
「戦の後だって、兵を率いて残党を蹴散らしに回ったし、仲間内で間違いがあれば、合議でそれなりに罰した。最善は尽くした」
「ああ。確かに、奴はヤマトを退けた。だが奴の力が及ばないところ……イワイの谷に近い、下流の集落はどうなったと? 結局あれから、そこかしこ荒らされ放題だったはずだ」
モレはスブセで戦があった時分の付近の情勢について、やけに多く知っている風だった。彼の口から出る当時の状況は、己が見聞きして集めたものと大方相違ない。もしや、元はイサワ平に近い出なのだろうか。しかし、モレはそのまま心情をまくし立てて言うような事はせず、何か思い出したようにしばらく黙りこんでしまった。
「もういい。面倒くせえな、俺が悪かったよ。スブセのことは、これくらいしか知らない」
「どっちが面倒くせえんだよ……」
溜息にも似た深呼吸一つ、強引に話を切り上げるモレに対し、アテルイはその不機嫌そうな横顔を見ながら小さく返した。このままこちらも熱くなって、互いの神経を逆撫でし合うというのも立場上、今後の都合が悪いだろう。
モレが柵の修理に戻ると、アテルイは再び畝の間にしゃがみ込んで、まるで人の髪でも掴むように草を強く握ってはむしっていった。日を浴びた土から上る湿気で、顔から首元が汗ばむ。たまに胸元に吹き込むそよ風が涼しい。
黙々と作業する内、次第に風が強くなってきた。辺の山には雲が掛かり始めたか、たまに日の光が弱まり、手元が僅かに暗くなる。沢から吹き上がる風に乗って、微かにどこかで聞いた事のある音が聞こえて来たような気がした。アテルイは立ち上がり、背伸びをしながら辺りを見回した。たしかに、木の葉の擦れる音に混じって鼻息が聞こえる。しばらく風上の林内に目を凝らしていると、獣の影が見えた。囲われた畑から道に出て、アテルイは思わず近くに居たモレに声を掛ける。
「オイ、馬が来るぞ」
.
沢に下りる小道の方から、鹿毛の馬が1頭きり、脇目も振らずこちらへ歩いてくるのが見えた。乗る者も、曳く者も見当たらない。近付いてきた馬は、目の前に立つアテルイを特に気にするでもなく避けて通り、目当ての男を認めるや小走りでそちらに駆けていった。モレは驚く様子もなく、浅くため息をついた。
「しょうがないな。また来たのか」
肩から腰、肋の皮に老いが見える、くたびれた面繋だけを付けた小柄な牝馬。土だらけの懐に鼻面を押し付け、満足げに鼻息を立てている。モレは馬の面を抱え込み、しばらく頸を擦ってやってから一旦離した。穏やかなその横顔から、先程の不機嫌さは感じられない。
「お前、馬飼ってたのか」
「いや、放れ馬。大分下流の家で世話してるやつだ」
「他人の馬にしても、えらく慣れてるじゃないか」
「荷運びで何度か世話になってさ。何がいいのか、抜け出してここまで勝手に来ることがあるんだよ」
モレは肩に掛けた縄を解き面繋に繋ぐと、慣れた様子で畑から離れた立ち木の側へと曳いていき、そのまま幹に括った。馬は大人しく、林縁に少しばかり生えた笹をむしる。
アテルイはふと、イサワから逃れる際に跨ってきた馬の事を思い出した。足がつくのを恐れ、山中に入る前に人里近くの川の淵で水を飲ませ、そのまま置いてきてしまった。近くの者か、あるいは追手に見つかっただろうか。捨て置いた手前があまり言えるものではないが、稀に見る壮健な馬だ、誰かに見つけられたとしてても、無下には扱われていないだろうと信じたかった。
「……このままだと、さすがに泥棒扱いされるからな。明日あたり久しぶりに、トオノ平まで下りてみるか」
モレは柵に立て掛けてあった槌と鋤を片付けながら言う。稀に余所の人間と取り引きをしていることはもちろん聞いていたが、麓の人間や集落との関わりが本当に殆どない、というわけではないようだ。どうにか彼の知人ということで話を合わせた上で山を下り、辺の様子を見るには好機だ。
「じゃあさ、私もついてっていい? 」
アテルイはモレの後に付いてすかさず訊ねた。家に得体の知れない人間を1人置いて遠出するのは余りにも不用心だ。おそらく断らないだろう。
「まあ……仕方ない。言っておくが、妙な真似はするなよ」
人里近くまで下りる都合が出来た。トオノ平の様子はどんなものか。己はまだ、イサワの者から追われているのか。立場が不自由ではあるが、出来る限りは情報を集めたい。
「色々確かめたいことがあるけど、ほら、私が出張ると怪しいからさ。聞きたいことはお前を通して聞く」
「それはそれで怪しいだろ……」
モレは納屋として使っている廃屋に入ると、アテルイに手招きした。
「手ぶらで下りるのは損だ。折角だからあいつに荷運びを手伝ってもらうよ。もちろん、アンタにもな」
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翌日の2人は、早くから動き出した。まだ日は昇らないが、林内を難なく歩ける程には明るい。背負子を背負ったモレと彼の曳く馬が先行し、小さな荷袋を肩に掛けたアテルイが、その後に付いて歩いた。
モレの家の傍を流れる沢を伝い、川に出会ってからまたしばらく下流に行けば、トオノ平は北の外れに出るという。途中、谷間の開ける場所に広い河原があり、今年はその付近で馬を放しているということだった。運がよければ見回りの馬飼に取り次いで馬を返せるらしい。
しばらく黙々と歩く内に日が十分高くなり、山の木々が青々とした葉をめいっぱい拡げて夏の陽射しを浴びていた。輝くような木漏れ日の中を曳かれて歩くのを楽しんでいるのか、老馬の足取りは心なしか軽快だった。
「こいつ、元気だけど大分年寄りだな。よくもまあ、長いこと飼われているようだけど」
「年は食ってるけど、見ての通りほら、中々利口だからさ。誰かと違って正直だし」
「誰か、って」
老馬はモレがアテルイに指し示していく通りの道筋に沿って、自ら進んでいく。突如小さな動物が目の前を横切っても、特に驚く様子もない。自信に溢れ、かつ曳手にしかと寄り添うように山道を下っていった。モレの家まで来たということは、相当な道のりを人の手を借りずに1頭で歩いてきたという事だ。彼の言う通り、利口な馬だ。時に強情で、恐れ知らずでもある。歳で始末される事なく、その衰えた体がある日斃れるまで歩き続けるような、強かに生きる馬なのだろう。
アテルイは感心する内に、アザマロの姿が脳裏に浮かんだ。老いてなお、自ら矢を番え戦うあの翁は今、何を目論んでいるだろうか。
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昼も近くなった頃には、大分開けた場所まで下りてきた。今まで伝ってきた沢の水が、他の谷間の流と合わさり、川幅が次第に広くなっていく。せせらぎの音と、谷から見上げる山影を頼りに、青々と茂る灌木と薄の間を縫ってまた歩いた。
「そろそろ、群れか人か、見えてもいい頃なんだがなあ……」
薄の合間に見える、背の低い草地を眺めながらモレは言う。相槌を打つかのように、老馬が嘶きを上げたそのすぐ後だった。草陰の向こうから、こちらに手を振って声を掛ける者がある。よく見れば、何人か腰掛けて休んでいる馬飼の内、端にいた青年が1人立ち上がり、こちらに近寄ってきた。
「やあ、久々に下りてきたな、福の神!」
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※この物語はフィクションです。実在する人名地名団体名とは一切関係ありません